短編読み物「夜桜3」 部屋が急に暑く感じられた。
体温が上昇しているせいかもしれない。腋の下に、じとっと汗が滲みだしてきていた。
「こちらを向かせますよ」
芹尾と至近距離で対面した瞬間、視線が重なった。
美咲はすぐに瞳をうつむけたが、潤み切った表情ばかりは隠しようもない。せめてもの救いは、間接照明に照らされた部屋のほの暗さだった。
「こうして、縄をここに通します」
肩から垂らされた縄が、乳房の谷間を経て胸下の縄に通される。
「んっ……」
思わず声が漏れた。
芹尾の手が乳房をかすめたのだ。
豊かに盛りあがった小山に触れることなく、胸元を縛るのは不可能というものだろう。触れるか触れないか微妙なタッチでも、今の美咲には愛撫に等しかった。高ぶりはじめた身体が、性感を欲しがっているのかもしれない。
深く刻まれた谷間を、縄が幾重にも往復する。まるでカップを取り去ったブラジャーのような形に編まれていく。
シュルシュルと縄を引きだす時に、芹尾の手が何度も乳房に当たる。そのたびに、美咲は唇を噛みしめて、声を押し殺すのに必死だった。
上下に挟みこむ縄が、万力のように双乳を絞りあげていく。胸が圧迫されて息苦しかった。なのに、やめて欲しいとは少しも思わない。
「やはり胸が豊かだと、縛り甲斐がありますね」
顔を見なくても、芹尾が少年のような無邪気さで微笑んでいるのがわかった。穏やかな口調とは裏腹に、興奮のためなのか鼻息が荒くなっている。
「もう少し我慢してくださいね」
ささやきかけられながら、身体の向きをくるくると変えられる。
まるで自分が人形になったような奇妙な気分に支配されていた。けれど、それも不快ではない。身動きが取れないのに、恐怖や不安といった感情が湧いてこないのだ。高揚こそすれ、満ち足りた心持ちがしてくるのが、美咲には不思議だった。
「ふぅ……これで完成です」
背後の芹尾が、深く息を吐きながら、満足そうに言った。
それから前に回りこみ、少し離れて縄の具合をチェックしている。作品の出来栄えを確かめる芸術家のようだった。
「思った通りですよ。美咲さんは、抜群に縄化粧がお似合いだ。私がもっと巧く縛れたら良いのですが」
芹尾は自分の作品を嬉しそうに眺めては、首をひねったり、うんうんと頷いたりしている。
遠慮のない視線が、縛められた肢体に向けられる。上から下へ、また下から上へ。舐めるように這い回る眼差しに炙られて、美咲の身体は一層、熱を帯びて疼きを深くする。
その眼差しが最後に止まった先には、これでもかと絞りあげられた双乳があった。縄に挟まれ無残にひしゃげきった肉の塊が、芹尾に向かって卑猥に突きだしているではないか。
「ああっ……」
美咲は恥辱感に打ちひしがれて、うめき声を漏らした。
激しい驚愕の裏には、どうすることもできない悦びが隠れている。自らの淫らすぎる姿を見下ろしているだけで、身体が極まってしまうのではないかと思えるほどだった。
スカートの内側は、恥ずかしい匂いが充満していることだろう。魅蜜をたっぷり吸いこんだ下着は、その部分が重たげに垂れ、指で触れればタプタプと水音を響かせてしまうに違いない。
「痛いところはありませんか?」
「だ、大丈夫です……」
「じゃあ撮影しましょうね」
爽やかに言って、芹尾がカメラを手にした。
自分ばかりが興奮を覚え、欲望の花を濡らしているのが恥ずかしかった。美咲は顔があげられぬまま、モジモジと太腿を擦り合わせる。
「顔をあげて。こちらを見つめてください」
何度か促されて、ようやく美咲はぼーっとした頭を持ちあげた。
その瞬間を待ってフラッシュが瞬く。
「すごく綺麗ですよ」
ファインダーを覗きながら、芹尾が声を弾ませる。
再び閃光がして、部屋にシャッター音が響いた。
白い光の中にいると、心が肉体を離れてフワリと浮きあがるような心地がした。幸福という感情にとても近い気がする。けれど、それは新月の光のようにおぼろで、一夜明けると消えてなくなってしまうような幸福感だった。
芹尾がカメラから顔を放し、液晶モニターで画像をチェックしている。
緊縛の最中は、間近にいた芹尾の顔を一度として見られなかった。だが、今はじめてその表情を目にして、美咲は胸の鼓動が一段と高くなるのを感じていた。
黒みを帯びて紅潮した顔に汗が光っていた。劣情に染まった男の顔だった。
傷つき弱った獲物を前に、舌なめずりする肉食獣の表情にも似ている。ギラギラと鈍い輝きをたたえたあの瞳に見すえられていたのだ。
そう思うと、めまいのような歓喜に襲われてしまう。自分の姿に興奮してくれているのなら、女としてこれ以上に光栄なこともないからだ。
動悸が乳房を波打たせ、着衣の中で乳首が尖り勃ってしまう。ブラのカップに擦れるだけで、悦びの声を発してしまいそうだ。
今、芹尾に胸の先端を触られようものなら、たちまち達してしまうかもしれない。
「苦しくないですか?」
「い、いえ……」
「じゃあ、もう少し辛坊してくださいね」
撮影の合間に何気なく交わされた会話が、美咲を切なくさせる。
もう少ししたら、縄を解くというのだろうか。それとも、疼きを辛抱した分だけ、ご褒美をくれるのだろうか。
ああ……美咲はいやらしい女です……
淫らな告白が、熱くたぎった頭の中で、何度も何度もフラッシュのように閃いた。
ファインダー越しに見つめる芹尾に、誘うような熱い眼差しを向ける。高ぶり欲情した自分に気づいて欲しかった。
お好きなだけ美咲を折檻してください……
とめどなく卑猥な言葉が頭の中に溢れだす。
ベッドに押し倒し、濡れた下着を乱暴に剥ぎ取られたかった。こんなに濡らして欲求不満ですかと、なじられたかった。
そして、獣のように覆いかぶさり、剥きだしの生肉をなぶり尽くされたかった。
美咲はノートパソコンに向かうと、いつものようにSDカードをスロットに挿しこんだ。芹尾に渡されたカードだった。偶然、美咲の年齢と同じ数の写真が、画面に表示される。あの日、芹尾が撮ってくれた二十八枚の画像である。
撮影を終えた芹尾は、穏やかな表情で感想を述べながら、縄を解いてくれた。敢えて美咲の欲情ぶりに気づかぬフリをしてくれているようにも思えた。
それから、撮影モデルを慰労するように「お疲れ様でした」と言葉をかけ、後片づけを始めてしまったのだった。
「写真はカードごとお渡しします。気に入ったものがあればブログにアップしてくださいね。私はブログで見るのを楽しみにしています」
帰りの車中でそう言われた。
緊縛画像など公開しようものなら、誰に撮られたのか他の常連たちに質問されるのは必至だ。そうなった時、どう答えるべきか美咲にはわからなかった。
本当は、お気に入りの写真ばかりだ。なにしろ、芹尾に撮ってもらった宝物なのだから。毎日うっとりと眺めているうちに、時間ばかりが過ぎてしまったのだ。
こうして一枚一枚を丹念に眺めていると、どうしようもない疼きに見舞われる。あの日の鮮烈な体験が、まざまざと脳裏に蘇ってきてしまうせいだ。
そうなのだ。あの日を境に、美咲の身体はみるみると淫らに変わっていった。芹尾と逢った後、自宅に戻って激しく自らの火照りを鎮めたあの日。それから毎日、この画像を見ながら、貪婪(どんらん)になった肉体に快楽を与え続けてきた。
しかし、どれほど身体を慰めようと、女の泉は涸れることを知らなかった。身体の奥では、いつまでも炎がくすぶりつづけ、何かの拍子に再び燃えあがってしまうのだ。気づけば下着の中に手をしのばせ、夢中で快楽を貪っていた。
昼間に、ぐったりするほど肉体を責め果てさせても満ち足りず、先に夫が就寝すると、決まってリビングで画像を眺めた。
発情しきった女の顔がそこには写しだされている。この表情を目のあたりにしながら、芹尾は本当に美咲の欲望に気づかなかったというのだろうか。
あなたの望まないことはしない。そう芹尾は言っていた。やはり自分が口にしなければ、先に進むことはない関係なのかもしれない。だが、女の自分にそれを言わせようというのは、あまりに酷(こく)というものだ。
サディストの流儀なのだろうか。男女の経験に乏しい美咲には、芹尾の真意が想像できなかった。
日曜日の午後、久しぶりに夫と肩を並べて、春の光の下を歩いた。スプリングコートさえ必要ない陽気である。
前夜、夫が珍しく、桜を見に行こうと誘ってくれたのだ。梅が散ってからというもの、悶々と過ごしていただけに、良い気分転換になりそうに思えた。
市の中心を東西に横切る河川。その両岸は、ソメイヨシノの大木が長く連なり、花見の名所として知られている。美咲の家から徒歩で一時間近ほどの行程なのだが、陽気に誘われるまま歩いていると、さほど長くは感じられなかった。
遠くから並木を眺めると、風にたなびく桜の花は、まるで淡い桃色のカスミが漂っているかのようだ。
はらはらと花降る道を、夫と手をつないで歩く。そんな日常のささやかな幸せが、今の美咲には必要なのかもしれない。
ところが、堤防は人でごった返し、およそ風流とは思えぬ露天が軒を並べていた。数年前、ひとりで訪れたときの印象とあまりに違っていて、美咲は当惑した。おそらく平日だったから、静かに桜を愛でることができたに違いない。
今を盛りと桜が咲き乱れる下では、思い思いの場所に陣取った花見客が酒宴を催している。浮かれ騒ぐ人の波に加わって、無邪気に酒盛りする気分には、どうやってもなれそうになかった。
そもそも美咲は、控えめに花を咲かせる梅のほうが好きだった。桜の絢爛たる咲きっぷりを眺めていると、自分には似つかわしくない光景だと思ってしまう。
「アテが外れたって顔だな」
そう言う夫もまた、表情を曇らせ落胆した様子だ。
「こんなに人が多いなんて驚いちゃった」
「そうだな。でも、せっかく来たんだし、屋台で何か買って、少しは花見気分を味わおうよ」
「うん。そうだね」
美咲は気持ちを切り替え、既に歩きはじめた夫の背中を追う。
昔から、人いきれや雑踏が苦手だった。
スーパーやデパートでの買い物は、混雑する時間を避けるようにしている。毎朝、電車で通勤している夫には悪いと思うが、結婚以来、満員の電車に乗ったこともないくらいだ。
前を歩く夫とはぐれぬよう小走りで追いつき、夫の腕に子供のようにつかまった。
夫が、美咲の変化に気づいているとは考えられない。普段から妻のヘアスタイルが変わっても気づかない鈍感さが夫にはあった。寂しい話しだが、さほど妻に興味を持てなくなっていると言えなくもなかった。
それでも、花見に誘ってくれたのは、浮かぬ顔をしている美咲を、夫なりに心配してくれたのかもしれなかった。
「夜に来れば良かったな」
前を向いたまま、夫がぼそりと言った。
「夜?」
「ここって、夜は桜がライトアップされるらしいよ」
「そうなんだ……」
川の水面が桜色の光を宿して、キラキラと揺らめき流れる光景を美咲は脳裡に描いた。けれど、幻想的な桜の下で、共に時間を過ごしたいのは夫ではない。
今すがっているこの腕が、あの人のたくましい腕だったらどんなにいいだろう。そう想わずにはいられなかった。
行き交う人の中に、似た背格好の男性を見かけるだけで、美咲ははっとして、ときめいてしまう。逢いたかった。夫とふたりで過ごす休日だというのに、今すぐにでも芹尾に逢いたかった。そして抱いて欲しかった。
その夜、歩き疲れて早々に夫が就寝してしまうと、美咲はパソコンに向かった。画像を眺めるためではない。ブログを更新するつもりだった。
逢いたいとメールすれば済むことなのかもしれない。しかし、お気に入りの写真をブログで見せて欲しいと芹尾は言った。そして、何度でも逢いたいと言ってくれた。その答えを、ブログで伝えようと思ったのだ。
芹尾に撮影してもらった二十八枚の画像から一葉を選ぶ。一番のお気に入りである。というより、最も恥ずかしい写真と言うべきかもしれない。
上気して桜色に染まった頬。
何かを訴えるように薄っすらと開いた唇。
目線をつけても、あからさまに欲情した表情は隠しようもなかった。
これが私の答えです……
美咲は祈るような想いで、いつまでも更新したブログを見つめていた。
クリック「夜桜4」につづく
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こちらもだいぶ春めいて、沈丁花の薫りがそこここで香っています。
清々しいとさえ思うような陽気で、
桜花繚乱の季節が近づいていると感じる今日このごろです。
寒の戻りもあることでしょうが、今は、このうららかな時を堪能しようと思います。
美咲の思いは、図らずしも叶ったようですね。
胸元を縛り上げられ「ほぅ」と甘い吐息が漏れてしまうさまは、
いつぞやの自分と重ねずにはいられません。
それにしても、男性が書いたとは思えないほど、
女性の心理描写の豊かさを感じます。
女性自身の漠然とした感情も、読み取り書き連ねる事ができるなんて…。
物語は佳境に入り、次回で終わってしまうのかと思うと、
なんだか寂しいような気さえします。
また、是非、手慰みでも構いませんので、
他のお話もご執筆くださいね。
少なくとも私は楽しみにしております。
皆様には、お見苦しい画像をお目にかけ、
心よりの感謝とお詫びを申し上げます。