短編読み物「夜桜2」 梅が散ったと思ったら、気が早いことにテレビでは桜の開花予想が語られている。誰もが本格的な春の到来を待ちわびる季節を迎えていた。
気づけば、芹尾と逢ったあの日から、ずいぶんと時間が経っている。
その後も、メールでは何度かやり取りをした。けれど、美咲は一日の大半を悶々と過ごすことが多くなった。ブログの更新も滞ったままだ。
「もう一度、逢いましょうと私からは持ちかけません」
そう芹尾に告げられたのは、逢瀬での別れ際だった。
「私は何度でも逢いたい。けれど、逢う逢わないを決められるのは美咲さんです」
まるで、責任を一方的に押し付けられたようで、その時は少しだけがっかりした。でも、先に進むか否か決断を迫られているのは、自分なのだと今さらにして思う。芹尾ははっきりと、何度でも逢いたいと言ってくれているのだ。
逢瀬が楽しかっただけに、また逢いたいと思わずにはいられない。けれど、そうだからこそ、もう逢ってはいけないのだと思い直す。
美咲の思いは、堂々巡りを繰り返すばかりだ。
きっぱり不倫をする気はないと告げておくべきだったのだろうか。そうすれば、また気軽に逢えたかもしれない。
しかし、今になっても告げられないのは、美咲自身が、芹尾に抱かれたいと思っているからに他ならなかった。次は男と女の関係になってしまうだろう。
あの日は、本当に寒かった。
ファミレスを出た瞬間、火照った身体が冷まされていく感覚が、妙に心地よく感じられた。けれど、その後の記憶は、霞がかかったようにぼんやりとしていた。どうやって車に乗りこんだのかさえ思い出せないのだ。
このまま付いていっていいものか、それとも帰るべきか。心の中で押し問答を続けていたせいで、上の空だったのだろう。
初対面の男性と二人きりになれる場所――おそらくホテルのような所――へ行くというのだから、ためらっても無理はなかった。
逢うだけだと言っておきながら、緊縛の準備をしてくる芹尾の抜け目なさは、やはり警戒すべきなのかもしれない。
もっとも、長きに渡ってブログやメールを通じて信頼関係を築いてきた間柄。現実に逢ってみれば、信頼感は揺らぐどころか、むしろ強固になった気さえする。
それに、どこか心の片隅で、美咲も縛られることを期待していたのかもしれない。それが証拠に、真新しい下着に身を包んできているのだから。
「この時間だと、こういう場所しか思いつかなくて」
シルバーのセダンが滑りこんだのは、郊外にあるラブホテルの駐車スペースだった。促されて車を降りる時、急に心細くなって、芹尾の表情をうかがってしまう。
「もし次があるなら、今度はちゃんとした場所を確保します。今日はここで許してください」
大きな鞄を後部座席から下ろしながら、芹尾が明るい声で言った。美咲の不安を察して、気さくに振る舞おうとしてくれているようだった。
もし仮に、予約したホテルに連れて来られていたらどうだったろう。逢うだけと口先では言っておきながら、芹尾が最初からホテルに来るつもりだったら、気持ちが冷めていたかもしれない。
エントランスを連れ立ってくぐると、壁一面に部屋の写真パネルが煌々と光を放っている。バックライトが消えている部屋は塞がっているのだろう。
結婚前、夫とラブホテルに来た経験はあるが、まさか結婚後、このような形で訪れるとは、これまで想像すらしなかった。なにしろ相手は、初対面の男性なのだから。
ホテルに付いてきた時点で、その気があると勘違いされていないだろうか。不安が脳裏をよぎった。夫を裏切るつもりもなければ、家庭を壊すような勇気など微塵もない。好奇心だけで、こんな場所に来るべきではなかったのだ。
私、不倫する気はありませんから……
喉元まで出かかった言葉を、ぐっと飲みこむ。
芹尾が本当に、縄を見せる目的でここに来たのなら、大恥をかくことになってしまう。
「安心してください。私と美咲さんは友人です。美咲さんが望まないことは、何もしませんから」
部屋に入って開口一番。まるで美咲の胸中を見透かしたかのように、芹尾はそう言ってから、ソファーを勧めてくれた。
これ以上、ドギマギしていては、まだ芹尾を信用していないかのような印象を持たれてしまうかもしれない。美咲は心を落ち着かせようと、ソファーに腰を下ろした。
芹尾が選んだのは、何の変哲もない白壁の部屋だった。
さりげなく見渡してみると、華美な装飾もなければ、悪趣味な調度も置いていない。少し広めのビジネスホテルといった趣きである。
ただし、照明が暗いことと、バスルームがガラス張りになっている点を除けばだが。
美咲が、バスルームから慌てて視線を外したのに気づいたのか、芹尾が可笑しそうに笑っている。
「もう緊張しないで。こんな場所ですが、ファミレスと違って、大っぴらにブログや緊縛の話ができるんですから」
そう言うと、大きな鞄をソファーの脇に置いて、美咲の隣に座った。
いわゆるラブ・チェアーとでも言うのだろうか。二人がけのこじんまりとしたソファーに並んで座ると、少しの動きで身体が触れ合ってしまいそうだ。
身を固くして、芹尾の動向に気を配る。息苦しかった。自分の荒くなった呼吸音を聞かれてしまうのが恥ずかしくて、無理をして息を殺していたからだ。
ところが、そんな美咲に気づく素振りもなく、鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌ぶりで、芹尾がバッグから次々と縄を取り出し、テーブルに並べはじめた。
驚くべきはその量で、赤いロープの束が五本、麻縄の束はその倍の数はありそうだった。
「縄を新調したんです。といっても、もう何年も緊縛はしていないのですが」
よほど几帳面なのか、並べる順番でも決まっているのか、芹尾は縄の向きにまで気をかけている。単に並べるのが楽しいのかもしれない。
その様子が、まるで新しい玩具を買ってもらった子供のようで、今度は美咲が少しだけ可笑しくなった。
「今、笑いましたね。なんです?」
ニコニコしながら、芹尾が美咲の顔を覗きこんでくる。
「いえ、なんでもありません」
「なんだかなあ、気になるなあ」
「ほんとに、何でもないんです」
言いながら、芹尾の上機嫌に釣られるようにして、美咲もニコニコとしてしまう。
心細さから解放されると同時に、すっかり打ち解けられた気がした。芹尾といる時間はきらきらしていて、ことのほか楽しかった。
「ほら、縄を持ってみてください」
芹尾が先に渡したのは、赤い綿のロープだった。
「軽くて柔らかいですね」
「ええ。これなら肌を傷めないし、赤い色が、美咲さんの白い肌に映えるだろうと思いましてね」
ラブホテルに居ることなど、すっかり忘れて、美咲は芹尾の話に耳を傾ける。
「じゃあ、次はこちらを」
手渡されたのは、まさに縄だった。
「麻縄は手間がかかります。水を変えながら鍋で煮たり、火であぶってケバを取ったり、油で手入れをしたり」
芹尾が楽しそうに説明する横で、美咲は陶然としていた。
縄が放つ独特な香り、滑らかな肌触り。急に頭がぼんやりして、身体の奥からこんこんと女の泉が湧き出してくるのがわかる。
いつから濡らしていたのだろう……
はっとして、美咲はさらに肩をすぼめた。
縄を渡された瞬間からではない。車の助手席で、胸の先にシートベルトが当たった時も、モジモジと太腿を擦り合わせていたのだ。
ではファミレスではどうだったろう。そうだ。芹尾が着物の画像を褒めてくれた時には、もう既にヌルリとした感触がした。よくよく考えてみれば、自宅を出て電車に乗っている最中に、濡れ始めていたのではなかったか。
奥さん、欲求不満?
ブログに書きこまれた中傷が、こんなときに蘇ってきた。
逢うだけだと自らに念を押して家を出たのに、昼の日中にラブホテルに来て、真新しい下着を濡らしている。縄の感触を手のひらで味わうだけで興奮してしまう欲求不満な女。そうだ、自分ははしたない女なのかもしれない。
「写真を撮ってもいいですか」
物思いに耽っていた美咲は、目の前で芹尾がカメラを構えている姿に慌てふためいた。
「あっ! あの……写真は困ります」
「でも、逢えた日の記念が欲しくありませんか」
「いえ、でも……」
美咲はあたふたと顔を背けた。濡らしている自分を恥じていた。
「あ、そうか。写真を悪用されるんじゃないかって心配になりますよね。悪用ったって、私の場合はオカズにするくらいですけど」
そう言って、屈託なく笑う。
「写真はすべてカードに記録されますから、後でカードごとお渡ししますよ」
芹尾がデジカメから記録用のメディアカードを外して見せてくれる。自宅でセルフ撮影をするので、美咲にもカメラの仕組みはわかっていた。
「縄を持って、笑顔を向けてください」
「あ……ん……はい」
笑顔を要求されても、グラビアモデルのようにすぐに笑顔になれるわけでもない。後になって写真を確認すると、思った以上に笑顔が引きつって怖い顔だった。
「じゃあ、次は両手に縄を持って」
芹尾は、いかにも嬉しそうだ。シャッターを切ると、すぐさま写真をチェックしている。
「すごくいいです。やっぱり美咲さんは絵になりますね。綺麗だなあ」
プロのカメラマンが、モデルのテンションを高めるために褒めちぎる。そんな撮影光景とは明らかに違っていた。芹尾の表情には喜びが溢れている。本気で言ってくれているのかもしれない。
「もっと笑顔でお願いします。可愛く笑って」
可愛くない女に、可愛い笑顔を求められても困ると思った。けれど、芹尾の前では可愛く笑えそうな気がしてくる。
カメラのファインダー越しに、芹尾の眼差しを感じた。
フラッシュが瞬くたびに、下着の濡れ染みが広がっていく。男の欲望がたぎった視線を浴びせられて、たまらずに身体が反応してしまうのだ。
「せっかくの機会ですし、もう少しブログ用に撮影してみましょうか」
「それは構いませんけど……」
「お洋服の上から、簡単に縛ってみてはいけませんか」
「えっ!?」
美咲は、驚いたフリをした。だが本当は、驚いてはいなかった。芹尾がそう言い出す気がしていたのだ。もしかすると、密かに待っていたのかもしれなかった。
逢う約束をして以来、様々な妄想がひらめいた。そのたびに、そうなるわけなどないと頭の中では否定してきた。
だが、妄想がいざ現実となろうとしている今、美咲は焦がれるように身体を潤し、悦びが太腿の奥から滴ってしまうのをどうすることもできないでいた。
不倫をするつもりはないという言葉は、自分を戒めるためにも口に出すべきだったのだ。それが言えないのは、自分から不倫の可能性をゼロにしたくないからに違いない。
少なくとも、初対面の男性とホテルに来て、記念写真を撮られ、今から縄で縛られるというのは、友情という言葉の範疇で収まるような類の遊びではない。
「じゃあ、その場に立ってもらえますか」
促されて立ちあがった瞬間、芹尾の両手が美咲の二の腕を優しくつかんだ。
「身体の後ろをこちらに向けてください」
初めて触れられた箇所に、電流でも流されたように、美咲はふらついた。
「大丈夫ですか」
芹尾の胸に抱きとめられていた。密着した背中が温かい。
「すいません……立ちくらみがして」
そんな言い訳をして、わざと胸板にしなだれかかる。芹尾の身体からすぐには離れたくなかった。
「では、腕をこうして」
芹尾に導かれるまま、両手を背中で交差させるようにして組む。
「痕が残らないよう、腕はユルくしますね」
背後からささやかれただけで、美咲はその場に膝から崩れてしまいそうだった。吐息が髪をかすかに揺らす。
芹尾が手にしたのは、赤い綿のロープだった。
アテが外れたような気がしたのは、以前から麻縄での緊縛に憧れていたからだ。それでも、手首に縄がかかると、ビクンと反応してしまう。身体がひどく敏感になっていた。
シュルシュルと縄をさばく音に続いて、縄尻の結び目が床を打つ乾いた音が部屋に響いた。一気に緊張感が高まり、思わず身体に力が入ってしまう。
「力を抜いて。縄を前に回しますよ」
所作のいちいちで、芹尾が語りかけてくる。何をしているのか説明することで、美咲の緊張をほぐしてくれているのだろう。
二重になったロープが胸下をグルリと巡り、背中を通してまた前に渡される。四重になった赤い縄が、ベルトのように乳房を持ち上げる恰好になった。
芹尾がテーブルから新たな束を取りあげる。継ぎ足された縄が、今度は胸の上に通された。乳房が四本の縄で上下から挟みこまれていた。
「キツクありませんか」
そう訊かれて、美咲は首を振る。
もっと絞りあげるように、容赦なく縄を掛けて欲しかった。そして、身動きが取れなくなった身体を玩具にされてみたい。そう想わずにはいられなかった。
クリック「夜桜3」につづく
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こんにちは
“美咲”と私をまた重ねてしまいました。
体験で縛っていただいた時、キャリーケースには沢山の麻縄、お道具が入っていました。
"芹尾”と同じ様に、ご主人様は私に麻縄を触らせてくださいました。
柔らかく肌に吸い付くような感覚。
使い込めばこむほど、鞣しをすればするほど、柔らかくなる。
次をどうするかは、 “美咲”次第。
だけど“芹尾”は「何度でも逢いたい」だなんて ズルい ですね。(*^_^*)
女心を熟知した紳士な方です。
最初から撮影を許した “美咲”は迷うけれどもう心の中では随分と前から決まっていたのでしょうね。