短編読み物「夜桜5」「お腹がすきませんか」
縄を解き終えた直後に、芹尾が思いついたように切りだした。
「少し……」
と答えたものの、食欲はなかった。あっけない緊縛に、心が重く沈んでしまう。
まだ陽が落ちきるまでには、いくらか猶予がある。
前回の逢瀬でも、この時間をめどにホテルを出たのを美咲は思い返していた。もっとも、夫の帰宅前に自宅へ戻らねばならなかった前回と違い、今日はそんな心配がいらないはずなのだが。
「夕食に付き合ってください。私はお腹ペコペコです」
気さくな調子で、芹尾が誘ってくる。
美咲は、芹尾の胸中を推し量りかねて、あいまいに頷くしかない。芹尾が何を考えているのか、訊いてみたくてしょうがなかった。なのに、どう言えばよいのか迷ううち、何も言えなくなってしまう。
「和洋中、何が食べたいですか」
ホテルの高級フレンチやイタリアンは気詰まりに思えて、よく考えもせずに和食と答える。
「じゃあ、お寿司と天ぷら、どっち」
「えっと……お任せします」
わかりましたと言うと、芹尾は早速、ベッドサイドの電話でレストランの予約を取る。その物慣れた行動を見ているだけでも、仕事ができる男性という印象がした。
そもそも美咲は、自分で何かを決めるのが苦手だった。子供のころから優柔不断と言われつづけ、自己主張しない性格だと周囲に思われてきた。
実際のところ、美咲にだってやりたいことはあるし、言いたいこともある。しかし、最前列に並ぶ勇気はない。二列目にこっそり並んで、前の人がどうにするのか見届けてから、慎重に行動するほうが自分には合っている。
こんな性格だから、家庭でも完全に夫が主導権を握っていた。優柔不断な妻ゆえ、美咲のことまで夫が決めてしまうことも少なくなかった。
ただ困ったことに、夫はいつも事後報告である。生命保険に加入したとか、新車を買うとか、大事なことまでさっさとひとりで決めてしまう。
夫がそういうタイプだからこそ、惹かれて結婚したとも言えるのだが、少しは相談してから決めて欲しいと不満に思うこともあった。
それでいて、いざ不測の事態が起ころうものなら、オロオロして美咲に決断を委ねるので、強引なわりに頼りがいがない。
果たして芹尾はどのようなタイプなのだろうか。
次に逢うかを決めるのはあなただと突き放し、ブログに載せる画像の選択を委ね、今日だって泊るか帰るかを美咲が決めなければならない。
女が自から「逢いたい」「抱いて」「泊まります」などと、言えようはずもないではないか。
お気に召すまま選んでくださいと女に自由を与えるのは、芹尾らしい大人のやり方ではある。だが、何か言ってもらえないと、美咲は決断できない性分なのだ。
今にして思えば「部屋はステイで予約した」と言われた時に「今日は泊まれます」とはっきり言っていれば、こんなにもやもやした気分を味わわなくて済んだのかもしれない。
もし仮に、突然ホテルの非常ベルが鳴り響いたら、芹尾はどうするのだろう。そんなことをふと思った。
夫が一緒なら慌てて廊下に飛び出し、エレベーターで降りるか非常階段を探すのか、右往左往しながら美咲に訊いてくるのかもしれない。
一方、芹尾は電話一本で済ませてしまうのではないか。
フロントで状況を確認し「火災報知器の誤作動だそうです」と事もなげに言って、すぐに安心させてくれそうなタイプに思えた。
「お食事に行くなら、着替えないと……」
美咲がそう言うと、そのままで行きましょうと芹尾が答えた。
「和食ですし、お着物がいいと思います。もう少しだけ、美咲さんの着物姿が見ていたいです」
そう言われると美咲も悪い気がしない。荷物がかさんでも、草履を持参したのは正解だった。こんなことなら巾着も持ってくればよかったと思いを巡らす。
「すぐに済ませます」
そう前置きしてから、メイクを直すためバスルームに入った。
髪を手櫛(てぐし)で整え、マスカラを盛り直す。
その時、鏡に映った自分の姿を改めて見て、美咲は深くため息をついた。
美人でもなければ、表情もどこかしら暗い地味な女が鏡の中にいた。気の利いた会話ができるほど頭がいいわけでもなく、女性らしい細やかな気配りにも自信がない。
相手の顔さえまともに見ることができず、何を言われても、あいまいな返事をするばかりの平凡な女でしかなかった。
社会的な地位があり、女性の扱いにも長けた男性が、色めきたつように自分に夢中になってくれるわけがないのだ。
いや考えてみれば、芹尾のような男性ならば、他に交際している女性がいても不思議ではない。自分はその中のひとりにすぎないのかもしれない。
自分ばかりがひとりで舞いあがり、期待で身体を高ぶらせていたのかと思うと、自嘲が胸の奥に重く広がっていく。
しかし、湧きあがってくる感情は、哀しみや失意とは少し違っていた。
何も起こらないことには慣れている。自分の人生に、桜が咲き誇るかのような華々しい瞬間など、ふさわしくもない。むしろ今の感情は、諦めにも似た自己嫌悪だった。
食事をしたら帰ろう……
そう心に決めて、美咲はルージュを引き直した。
ブログを介して色々な人と知り合い、芹尾にも出逢えた。そして、胸躍るような体験もさせてもらえた。それ以上、多くを望みすぎてはいけなかったのだ。
特別な幸福にありつけるのは、特別な人たちに限られている。特別な美貌や才能がないなら、ささやかな幸福に満足して、慎ましく暮らしていくべきなのだろう。
だとしても、美咲にとって芹尾は特別な存在に思えた。千載一遇の邂逅(かいこう)だと思いこみたかった。
この先、半年に一度、いや年に一度でもいい。桜の花びらが風に舞う季節に、こうして逢えたらと思う。
こんな日がまた訪れますように……
美咲は祈るような気持ちで、鏡の中の自分を見つめた。
ガラス張りのシャワーブースが、美しい宝石箱のようにきらりと光を反射する。誰にも使われない寂しさで、乾いたシャワーヘッドが首をうなだれていた。
食事から戻ると、部屋は薄闇に包まれていた。
ドアの上にあるライトで足元は照らされているものの、美咲の足取りはおぼつかなかった。ビールを三杯も飲んだのだ。いつもなら、小さなグラス半分で顔が真っ赤になり、すぐに眠くなってしまうからお酒は固辞している。
酔いたい気分だったのではない。
乾杯でビールに口をつけても酔わないのが不思議で、注がれた分だけ飲んでしまった。揚げたての天ぷらが、あまりに美味だったせいもある。
食事を終えたら帰ろう。そう心に決めた瞬間から、ちゃっかりしたものでお腹がすいてきたのだった。
「酔いましたか」
部屋の壁に背中をもたせかけ、酔いに身を任せていると、芹尾が心配そうに声をかけてくる。
「少しだけ……でも大丈夫です」
「座りましょう」
肩を抱くようにして、芹尾がソファーまでエスコートしてくれる。瞬間、瞳に飛びこんできた窓の景色に、美咲は息をのんだ。
深く闇に沈んだ街並みが、宝石をまき散らしたように煌めいていた。外気が冷たく澄んでいるせいだろうか。美しい十字を描いた光の筋が、幾重にも重なって明滅を繰り返している。蛍の群れのようにゆらゆらと揺れながら飛んでいくのは、車のヘッドライトかもしれない。
夜景に見とれる美咲のすぐ後ろで、芹尾も窓の外を眺めているようだった。この光景をしっかりと心に刻みつけよう。そして、こうして芹尾と一緒にいるキラキラした時間を、いつまでも忘れないでおこう。そう思った。
「今日はこれで帰ります」
窓に向いたまま、美咲が言った時だった。
突然、後ろざまに抱擁されていた。
太くたくましい腕が、美咲の肢体を抱きしめる。息苦しさをおぼえるくらいに力強く引き寄せられて、二人の身体がぴたりと密着した。
「帰らないでください」
熱い息を吹きこむように、耳元でささやかれた。
「ああ……で、でも……」
美咲は何か言わなければと思った。だが、言っているそばから言葉はかき消えていく。頭がぼうっとして何も考えられなくなった。
「一年も、私はあなたに想いを寄せてきました。今こうして一緒にいられるのが夢のようなんです」
芹尾の腕に、さらに力がこめられる。
アルコールの酔いとは明らかに違う深い酩酊に襲われて、身体から力が奪われていく。その代わり、恋慕の情が堰(せき)を切ったように溢れ、熱い血潮となって全身に巡るのを美咲は感じていた。
「私の片想いなら仕方ありません。こうして夜景を見ているだけでもいい。だから、帰らないで」
その言葉が最後まで終わらないうちに、夜景がぼんやりと滲みはじめた。春の雨かと一瞬だけ錯覚した。
だが、そうではなかった。瞳に盛りあがった涙のレンズが、夜景をキラキラと滲ませていたのだ。
「もう一度……」
芹尾に気づかれぬよう、そっと指先で涙をぬぐう。
「もう一度、私を縛ってくださいますか」
「ほ、本当ですか」
「はい。私を……お好きなように……」
お好きなように縛ってくださいと言おうとしたのではなかった。私をお好きなようになさってください。そう言おうとしたのに、胸が一杯になって言葉が継げなかった。
「ここから先は、私に任せてもらっていいんですね」
美咲を抱きしめていた腕から、ふっと力が抜けた。
その腕に、美咲は両手をかけて、そっと胸に引き寄せる。
「……はい」
答えた瞬間、レンズがポロポロと水滴になって、芹尾の腕にこぼれ落ちた。
促されてソファーに腰かけ、芹尾が注いでくれたミネラルウォーターを口に運ぶ。こうなると知っていたなら、飲めないお酒など飲むのではなかったと少し後悔する。けれど、アルコールの力を借りなければ、縛って欲しいと素直に言えなかったかもしれない。
冷えた水が喉を通り、身体の芯に染み渡る。それでも火照りは容易に治まりそうもなかった。
「襦袢姿の美咲さんを縛りたいな」
薄ぼんやりと闇に浮かぶ芹尾の表情は見えない。穏やかで優しく響く、うっとりするような声だった。
「襦袢……はい」
小さく返事をして立ちあがろうとすると、とっさに芹尾が身体を支えてくれた。ふらついたのは酔いのせいばかりではない。悦びに身体が打ち震えて、足元がふわふわとしていた。
「お化粧を直してきていいですか」
酔いにまかせて芹尾の腕にしがみつき、甘えた鼻声をだした。その場で帯を解いて、襦袢姿になるのはためらわれた。
「ええ、もちろん」
しっかり抱きしめるようにして、芹尾がバスルームまで連れて行ってくれる。
洗面台の鏡に映った自分を見るのは、これで三度目だった。食後でルージュは剥げ、酔って頬は紅潮し、泣いたせいでアイメイクも崩れている。それでも、今の自分が一番マシに思えた。薄暗がりの部屋でなら、もっと大胆になれる気さえするのは、やはり酔いが手伝っているのだろうか。
入念にメイクを直してから、帯を解いて襦袢姿になった。
もう迷いはない。襦袢の裾から手を入れ、すっとショーツを脱ぎ落す。ただ、芹尾に逢ってからの数時間、常に濡れそぼっていた女の部分が気になった。シャワーを浴びると言えば良かったのかもしれない。
襦袢姿の自分を改めて見つめ、美咲は心を落ち着かせようとした。前合わせを整え、腰紐をしっかりと結び直す。衿口から覗く首筋が、淡いピンクの襦袢と地つづきのように桜花の色を浮かべている。
ありのままの自分を縛ってもらおう……
そう決心すると、バスルームのドアを開けた。その瞬間、はっとして美咲は立ち尽くす。
煌々と照明が灯っていたからだ。それでいて、窓のカーテンは開け放たれたままだった。
「あの……カーテンを閉めないのですか」
さすがに照明を消してくださいとまでは言えなかった。しかし、これほど明るい部屋で緊縛されるのに、カーテンを全開にした状態では気もそぞろになってしまうに違いない。
「こんなに素敵な夜景が見えるのに、もったいないでしょう」
芹尾が話しながら近づいてくる。美咲は無意識に、下着を付けていない胸元を守るように両手をあげた。
「望遠レンズか双眼鏡でもなければ、部屋を覗けませんから安心してください」
不安な顔で視線を床に落としていると、美咲の肘(ひじ)に下から手を添えて、芹尾が歩きはじめた。
「気づいていましたか。部屋にこんな大きな鏡があるのを」
連れてこられたのは、窓に向かって左側の壁にしつらえられた大きな姿見の前だった。実際よりも部屋が広々と感じられるのは、この鏡があるためかもしれない。
美咲を前に立たせて、背後から芹尾の手が優しく肩に乗せられる。
「このホテルに決めた理由は景色ではありません。部屋にシャワーブースと大きな鏡があったからです」
上機嫌な芹尾が、鏡に映った美咲に笑顔で目くばせを送ってくる。
襦袢姿の自分を見ているだけで恥ずかしいのに、鏡の中で視線が合うと照れくさくて、美咲は思わず目を伏せてしまう。
ふと、ラブホテルでの出来事を思い出した。
ガラス張りのバスルームを美咲が見ていたのを、芹尾は気に留めていたのだろうか。だからシャワーブースなのかもしれない。
だとすると、芹尾は大きな勘違いをしている。物珍しかっただけで、興味が湧いたのではない。いや、興味がまったくないわけでもないのだが。
「準備するので、このまま待っていてください」
そう言うと、芹尾はテーブルの上の縄を全てかかえ持った。
鏡に映った芹尾の挙動を、美咲は潤んだ眼差して追いかけてしまう。期待感で胸が高鳴り、鼓動が自分の耳にまで届くのではないかと思えるほどドキドキしていた。
縄を運んでベッドの上にどさりと投げだすと、芹尾は顎に手を添え思案顔になった。だが、すぐに何かを思いついたというふうに表情を輝かせる。
ベッドサイドまでスーツケースを転がしてきたかと思うと、中からタオルを取りだす。
不思議に思って見つめていた美咲に気づいて、芹尾が嬉しそうに相好(そうごう)を崩した。
「長めの緊縛になるかもしれないので、手首にタオルを巻いてから縛りますね」
長めの緊縛の意味が一瞬わからなくて、美咲はきょとんとして首をひねった。それが長時間だと気づいた時には、芹尾がタオルと縄を持って背後に立っていた。
言われるまま、両手を背中に回す。初めての時より、ずっと深く組めるようになっていた。入浴時間やテレビを観ながら、少しずつ練習してきた成果である。
ところが芹尾は、それでも満足していないようだった。美咲の二の腕に手をかけ、ぐいと内側に押しこむように力を加えてくる。肩の関節がギシギシと軋み、痛みをおぼえるほどだった。
そのせいで胸が反り返る様子が、鏡に映しだされていた。胸の小高い山がより一層、高くそびえ立つ。下着を身に付けないことが、これほど心細いとは思いもしなかった。生まれたままの裸身に、長襦袢の薄い布がまとわりついているだけなのだから気が気ではない。
手首に宛がわれたタオルの上から、縄がグルグルと巻かれていく。いつも説明しながら丁寧に縛ってくれる芹尾なのに、今日はなぜなのか気が急いているようでもあった。
それまで、ほのぼのとした気分でいた美咲は、縄尻が床をピシャっと打つ音に驚いて、急激に緊張が高まってしまう。
もちろん不快なわけではない。
後手に縛られ、もはや何ら抵抗できなくなったのに、安堵が胸の内に広がっていく。この先は芹尾が決めたことに従うだけだ。心も身体も、自分の全てを委ねてしまえる歓びを、ひしひしと感じずにはいられない。
縄が乳房を上下に挟みこんでグルリと渡される。縄が肉に食いこんでくる快美な感覚に、思わず声が漏れそうになった。これまでよりも、キツく縄が打たれていた。
夜景を見ながら、後ろから抱きしめられた感覚が、思わず蘇ってきてしまう。まるで縄に抱かれているようだ。
鏡と手元を交互に見ながら、芹尾が縄の位置を調節している。より卑猥な形に乳房が迫りだすよう工夫しているのかもしれない。
真剣な表情で縄に丹精をこめている芹尾の姿を、鏡の中で見られるのが嬉しかった。同時に、芹尾の眼差しに映る自分を、鏡で確認できてしまうのが悩ましくもあった。
新たな縄が継がれ、肩から前に垂らされる。芹尾が正面に立つことで、鏡の視界がさえぎられ、ほっとしたせいで身体の力が抜け落ちる。
だがしかし、それもつかの間だった。
息がかかるほどの距離で向き合っているため、次第に芹尾への想いが募ってしまう。
好き……
声にださずに頭の中でつぶやいてみる。
とたんに、自分の言葉にときめいて胸が波打つ。息苦しいのは、縄のせいばかりではなかった。
クリック「夜桜6」につづく
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素敵な旅をさせていただき
ただ一言…
ありがとうございます