短編読み物「夜桜1」 リビングの窓をあけると、風が梅の香を運んでくる。
可憐な花をつけた大振りな枝から、白い花びらがはらはら舞い落ちていた。先週までは満開だった梅も、一昨日の雨風でその大半を散らしてしまった。
冬の寒さに凍えながら、どれほど長く待ちわびても、花の命は短い。その儚(はかな)さゆえに、人は花を愛で慈しむ。その香に春の歓びを嗅ぐ。
けれど、庭に点々と散る花びらを見ていると、美咲は一抹の物哀しさを感じずにはいられなかった。
芹尾と逢ったのは、梅が咲き誇っていたころのことだ。
その日は、緊張で舞いあがっていたせいか記憶が所々あいまいで、大昔の出来事のように感じられた。あれほどの緊張を強いられたのは、結婚前、夫が美咲の実家に挨拶に来た日以来だったかもしれない。
逢うまでに何度もメールでやり取りをした。
人妻が自由に出歩ける時間となると、平日の日中に限られていたが、芹尾にとってもそのほうが都合がよいらしい。待ち合わせは、家から最寄りの駅を避け、普段はあまり足を延ばさない場所を選んだ。
昼下がりのファミレス。男女が初めて逢うのに、ふさわしいとは言えなかったが、開放的な空間で、友人然として逢うのがよいだろうという芹尾の提案で決まった。慣れない土地のお洒落なカフェよりは、ずっと気が楽になった。
とはいえ、互いの顔を知らずに待ち合わせる不安は拭い去れない。芹尾は美咲の本名さえ知らないのだ。最悪、店についてからメールしてくれればいいと芹尾は言った。
何もかもが生まれて初めての経験だった。
電車を降りて、駅からほど近い待ち合わせ場所に向かう。
子犬のように震えていた。肩が震えるのは、息が白くなるくらい空気が冷たいせいだ。けれど、膝頭が震えてしまうのは緊張のためだった。
ファミレスの扉を前にして、今なら引き返せると思った。
具合が悪くなったとメールで詫びて、何事もなかったように自宅に戻る。まるで、テストの日にズル休みを考える中学生のようだが、嘘だとわかっても芹尾は赦してくれるだろう。けれど、それで本当にいいのだろうか。
ちょっと逢うだけなのだし……
胸の内でつぶやいて、自分を鼓舞しようとする。ところが、寒さに凍えたように心は怖気づいたままだった。
待ち合わせ五分前である。芹尾は来ているだろうか。
そっと扉越しに店の中を覗こうとしたとき、自分の姿がガラスに写った。
この日の美咲は、ハイネックのセーターに、丈の長いフレアスカート。春物のコートを羽織っていた。縛ってくださいと言わんばかりに、着物を着る勇気はなかった。
その代わり、下ろしたての下着を身に付けてきた。いつもよりセクシーな黒の上下である。むろん、芹尾がそれを目にすることはないだろう。それでも、今日のために、いや芹尾のために購入したランジェリーだ。
美咲は一歩踏み出す。また一歩。
そして、意を決して扉を開いた。
すぐに出迎える笑顔の女性店員。高鳴る鼓動で、コートの胸元が激しく波打ってしまう。店員に待ち合わせだと告げ、明るい店内を見渡す。
すぐさま、窓際の席の男性が立ちあがった。
どうして私だと気づいたのだろう……
そんな思いとともに、中年男性の冴えない風貌を目にして、少しだけがっかりもしていた。二十以上も年上なのだから、歳なりといえばそれまでだった。
失望されることを恐れていただけに、自分は甘い幻想を抱かず逢おうと決めていた。それでも、無意識に期待をしていたのかもしれない。
美咲が席まで行くと、男は笑顔で「芹尾です」と、はっきりした口調で名乗った。
「椅子は温めておきましたから奥へどうぞ」
そう言って、いたずらっ子のように笑う。
胸がキュンと高鳴った。
さりげなく壁際の席を譲る大人の気遣いに感動していた。
この人になら縛られたい……
芹尾の容姿に落胆していたのが嘘のように、一転して印象が変わっていた。
「すぐに、みぃさんだとわかりましたよ」
そう言ってから、メニューを開いて置いてくれる。
ブログで使っている愛称で呼ばれ、美咲はくすぐったく感じて肩をすぼめた。今では親戚の間でしか通用しない子供のころの愛称だからだ。
「想像通り、綺麗な方でびっくりです。私なんかでいいのかなって気遅れしちゃいますよ」
「いえ、そんなこと……」
顔があげられずにメニューに視線を落とす。
店内は暖かだった。そのせいか冷たい外気で冷やされた頬が、脈打つように火照ってくる。
午後二時。しかも平日ということもあってか、店内に人影は疎らだった。
芹尾は思い出したかのように名刺を取り出し、そっとテーブルの上に置いた。
芹尾亮介。カタカナの会社名に、歳相応の役職。外回りの日はスーツが多いと言っていた通り、ネクタイ姿である。業種についても話してくれたが、その部分はあまりよく覚えていない。
オーダーを取った店員が下がるタイミングを見計らって、ようやく美咲も口を開いた。といっても「美咲です」と本名を明かすだけで精一杯だった。
芹尾はすぐに漢字を聞き出し「美しく咲く美咲さんですね。あなたにそれ以上、似合うお名前はないですね」と言って、やはりニコニコしている。
その日の着衣や髪型、マニキュアや靴にいたるまで、芹尾は目ざとく視線を配り、お綺麗ですと、感に打たれたように何度も繰り返した。
ブログのコメントなら、素直にお礼を書きこめるのに、直接、目の前で言われるとどうしていいのかわからなかった。褒められ慣れていないだけに、ただモジモジとするばかりである。
一口だけすすった紅茶のカップに、桜の花びらのようなルージュの跡。美咲のときめきは止まらない。まだ指先が震えている。
しばらく忘れていたときめきだった。
高校の時、密かに想いを寄せていたバスケ部のキャプテン。偶然、廊下ですれ違うだけで、ときめいたものだった。
結婚生活は、穏やかな生活を保障してくれる。けれど、代償として、ときめきを失わせる。
ときめきを忘れた人間は、恋愛ドラマにときめきを求め、ついには高級ブランドのバッグにときめいたフリをして生きていくしかない。
梅の蕾がひとつ、またひとつと花をつけるように、ときめきが訪れたなら、色あせた日々の生活がきらきらと輝きはじめることだろう。
「美咲さんのブログを見つけてから、もう一年かな」
芹尾が懐かしむように声を潜めた。
「はい。初めてコメントをいただいてから、もうすぐ一年ですね」
「それまでは、ブログにコメントしたり、ツィートしたことがなかったんです。でも、あなたを見て、感想を書きこまずにはいられなくなって」
「セリオというので外国の人かと……」
「ふふ、面白いこと言いますね。リョウスケにしておくんでした」
芹尾といると、ものの数分で心が安らいでくるのを感じた。年齢差を考えると、父親や学校の教師と話している感覚に近いのかもしれない。
「そうそう、着物姿の写真。本当に美しかったです」
話題が移って、美咲はかっと身体が熱くなるのを感じた。
この人は、私の裸を知っているのだ……
そう思うと、着衣越しに裸体を透かし見られているような気分がしてくる。どうしようもないほどの羞恥だった。耳たぶまで真っ赤になってしまう。
それでも、耳に心地よく響く声があまりに優しげで、ついうっとりとしてしまう。
「この後、美咲さんのお時間が許されるなら、場所を移しませんか?」
大人の包容力を感じさせる穏やかな口調で、芹尾が切り出した。
「時間は大丈夫です。でも、他の場所って?」
「今日は車で来ています。道具一式を乗せてあります。せっかくですから、縄をご覧になりませんか」
テーブルに身を乗り出し、芹尾がささやくように言った。
クリック「夜桜2」につづく
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柔肌の 熱き血潮に 触れもみで
寂しからずや 道を説く君
きっと私なら…甘い誘惑に負けてしまうことでしょう。
縛られたいと願っているのですから。
芹尾氏は、鉄南とは違ったようです。
柔肌に麻縄を食い込ませ、熱き血潮を巡らせるさまを観たいと
そう、言葉に出して思いを伝えたのですから。
情熱を一心に受けたのなら、
美咲がほだされてしまうのも頷けるかもしれません。
いよいよ…
初めての縄との対面。
触れなば落ちんとばかりに
その魅力に抗えるのでしょうか。
ザラついた…それでいてしなやかな縄。
手首を縛られてしまえば、身動きも取れないほど。
あっけなくも絡め取られてしまう。
そんな魅力に…。
次回が待ち遠しくて仕方ありません。